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发信人: tenderlylove (永远的结72~爱你不变), 信区: foreign_lg
标 题: 鼻(芥川龍之介)日文版----1
发信站: 听涛站 (2001年12月20日04:39:26 星期四), 站内信件
禅智内供(ぜんちないぐ)の鼻と云えば、池(いけ)の尾(お)で知らない者はない。
長さは五六寸あって上唇(うわくちびる)の上から顋(あご)の下まで下っている。形
は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰(ちようづ)めのような物が、ぶらりと
顔のまん中からぶら下っているのである。
五十歳を越えた内供は、沙弥(しやみ)の昔から、内道場供奉(ないどうじようぐぶ
)の職に陞(のぼ)った今日(こんにち)まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た
。勿論(もちろん)表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている
。これは専念に当来(とうらい)の浄土(じようど)を渇仰(かつぎよう)すべき僧侶
(そうりよ)の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それより
むしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。
内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧(おそ)れていた。
内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だ
ったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺(
かなまり)の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳の向うへ坐らせて
、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。し
かしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内
供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子(ちゆうど
うじ)が、嚏(くさめ)をした拍子に手がふるえて、鼻を粥(かゆ)の中へ落した話は
、当時京都まで喧伝(けんでん)された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻
を苦に病んだ重(おも)な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊
心のために苦しんだのである。
池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕
合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはま
た、あの鼻だから出家(しゆつけ)したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供
は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩(わずらわ)される事が少くなったと
思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには
、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、こ
の自尊心の毀損(きそん)を恢復(かいふく)しようと試みた。
第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人
のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫(くふう
)を凝(こ)らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なく
なって、頬杖(ほおづえ)をついたり頤(あご)の先へ指をあてがったりして、根気よ
く鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、こ
れまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるよ
うな気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため
息をついて、不承不承にまた元の経机(きようづくえ)へ、観音経(かんのんぎよう)
をよみに帰るのである。
それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説(そう
ぐこうせつ)などのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙なく建て続いて
、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類(たぐい
)も甚だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻
のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干
(すいかん)も白の帷子(かたびら)もはいらない。まして柑子色(こうじいろ)の帽
子や、椎鈍(しいにび)の法衣(ころも)なぞは、見慣れているだけに、有れども無き
が如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻(かぎばな)はあ
っても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重なるに従って、
内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下ってい
る鼻の先をつまんで見て、年甲斐(としがい)もなく顔を赤らめたのは、全くこの不快
に動かされての所為(しよい)である。
最後に、内供は、内典外典(ないてんげてん)の中に、自分と同じような鼻のある人
物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連
(もくれん)や、舎利弗(しやりほつ)の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない
。勿論竜樹(りゆうじゆ)や馬鳴(めみよう)も、人並の鼻を備えた菩薩(ぼさつ)で
ある。内供は、震旦(しんたん)の話の序(ついで)に蜀漢(しよくかん)の劉玄徳(
りゆうげんとく)の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくら
い自分は心細くなくなるだろうと思った
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我们的结72--永远爱你不变!!!!!!
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※ 来源:·听涛站 tingtao.dhs.org·[FROM: 匿名天使的家]
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